A Nomad in Abu Dhabi

UAE首都アブダビ在住 コーヒーを愛しカフェを探し歩くノマド

怪しい日本語と、友人と、人生

使わないと、言語能力は錆びる。

 

久々に旧友とSkypeで話をした。

いつからだったかもう忘れてしまったけど、

この国がSkypeができなくなってから、しばらく彼女とも話をしていなかった。

たまたま私がホテルのカフェにいた時と彼女が話せる時が奇跡的に一致し

奇跡的に話すことができた。(VPNとかすればいいんだが、めんどくさい)

 

親しい友人の、懐かしい声を聞けた時の、毛穴が開くような驚き。

久々の懐かしい顔の表情を見れたときの、照れくささと嬉しさ。

目の中に、意図せず、じゅわっと涙が溜まったのを感じた。

でも涙を心配させるのも嫌だし、そんな時間ももったいない。

出来るだけ眼を開く、早く涙が乾くように。

そして離れていた時を埋めるように、段々と溢れ出てくる言葉。

でもその言葉が追いつかない。もっと出したいのに、うまい具合に出てこない。

それがなんだか切ない。でもその焦燥感と高揚感に踊らされて

あっという間に数時間経っていることに気づく。

遠距離恋愛ってしたことないけど、きっとこんな感じなんだろうな。

 

ふとした時に、相手のふとした言葉や表情や表現が、

もう私の知ってるそれと同じではないことにも気づく。

歳をとったり、いろんな経験をしたり、日々をサバイバルしているうちに

人は自分を擦り削って、そこにまた新しい自分を加えて、日々変わっていくのだ。

そして、きっと相手も全く同じように、画面を通して見える私が、

彼女の記憶の中の私とは全く同じでないことを知っている。

相手の変化は、喜ばしいことであると頭ではわかりつつ、心を切なくもさせる。

 

次はいつ会えるかわからない。昔は毎日のように会っていたのに。

そう考えると喉仏のあたりが苦しくなる。

最後は、ちゃんと陽気なフリをして、またね!と明るく振る舞って通話終了する。

 

こんなに短時間で、感情がアップダウンしたのはいつぶりだろう?

そしてこんなにも感情を司る部分を使っていなかったのか、と気づく。

もともと、喜怒哀楽が激しい方であったので、自らを意識的に制して、

自分の感情を平たく、平坦に、フラットになるように、

特に社会人になってから長い期間を投じて、トレーニングして生きてきた。

そして今日、このSkypeをきっかけに無意識に、

素の自分がひょっこり姿を表して、今の形成された自分がびっくりさせられた。

使っていなかった部分を久々に使うと、それに伴う衝撃はすごい。

 

同時に、自分の日本語のありさまに驚愕した。

まるで、ルー大柴だ。

そして話し方がやたら翻訳みたいな文章になっている時があるのに気づく。

決して意識的ではない。逆に話しながらこういうのってどうやって日本語で言えば

さらっと言えていいんだったっけ?と思いつつも、

それを思い出せる自信もなければ、それを思い出す作業に

相手に引きずり込みたいわけでもないので、ただ内容を伝えたくて続けてしまう。

 

やっぱり言葉は生き物なので、使わないと段々と錆びていくし、

その言葉を話していた時の使い方・使われ方だけに囚われてしまう。

日本という日本語が日々生きて使われている場所で暮らしている彼女と話していて

私の日本語は、彼女の日本語と比べると、確かに同じ言語ではあるが

私の日本語は数年前の日本で生きていた日本語のようだ。

まるで、アイフォンiOSアップデートを数年前からしてないかのような。

私のiOSは6.0で彼女はもう12.0のような。

基本動作はさほど変わらないといえど、ささやかな部分に大きなギャップがある。

 

そしてそれに今まで全く気づいていなかったというのも、恐ろしい。

家での会話の基本は英語だ。

息子へも日本語で話すこともよくあるが、彼の会話レベルはまだまだ複雑ではない。

ゆえに、息子との会話で使われる日本語も、大人同士で話すような語彙や

使い方のバリエーションの豊富さにおいては、全く別の話になる。

 

最近は、仲良い友人とばかり会っていた。みんな英語を話す。

よく振り返ると先月は日本語を話す人とも指で数えれるほどしか会っていない。

人は慣れると、自然と自分が楽になる方角へ向かうようで、

やはり仲が良い人と会う方が、楽しいのはわかっているし、楽だし、落ち着く。

段々英語で過ごす割合が高くなればなるだけ、表現やスキルも蓄積され、

正確に伝えるのも受け取るのも容易になり、英語で会話していることのほうが楽になる。

未だ友人とまで呼べる仲の日本人がこの地にいないので、

知り合いの日本の人と会うことの方が、仲良い英語を話す友人と会うことよりも、

やはりプラスアルファの勇気とエネルギーが必要になる。

(これ、もともとが超社交的な人とかだと、こんなこと思わないんだろうな。)

 

昔テニスをしていた時、いつも同じパートナーと打ち合いをしていて

たまにパートナーが変わったとき、返ってくる玉が違いすぎて驚かされた。

逆に面白かったときもあったが、慣れるまでは疲労困憊。

慣れたら割と楽しめるんだけど。人間ってやっぱり習性の生き物だな。

 

でも、今仲良くなった友人も、最初のころ自分が相手がお互いの未知のテリトリーへ

少しずつ踏み込まなければ出会わなかったし、ここまで仲良くなれなかったはず。

もちろん友人関係も相性がある、誰でもかんでも友達になれるかというと別の話だし、

なまじ心地よいと感じれる友人たちとこの歳になって

この地で出会えたことがとても恵まれたことでもあると思う。

 

とりあえず、しばらく使っていなかったラケットを持ってテニスへ出かけよう。

テニスでいいパートナーがみつかるかは、また別の話。

テニスをすることに、きっと喜び・驚き・発見・意味があるのだから。